精神障害は不愉快な人間が最後に陥る姿の一つ。

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結局不愉快な人間と言うのは相手の心を邪推してそれが事実だったり思い込みだったりするものだから、挙げ句疑心暗鬼に疑心暗鬼を重ね精神的な病人になってしまうことも割りとよくあるのではないかと思う。
人を邪推する人間が気味の良い人間な訳がなく、意外と精神障害者と言うものは人の心を邪推した上で陥る不愉快な人間の最終的な挙句の果てなのではないかとも思う。

精神障害にも色々あるが、仮に人から攻撃を受けていると錯覚している病人がいたとして、人から攻撃を受けていると錯覚するに至った過程には必ず何かきっかけがあるはずだ。
そしてそのきっかけは恐らく彼が人の心を邪推するような気味の悪い人間で、そのせいで実際に迫害を受け人間は全て自分に敵意を抱いていると考えるようになったとも考えられて、どちらにしろ妄想を伴う精神障害を抱えた人間なんて録なものじゃないと私は思う。

ハンニバル・レクターと食肉の価値観。

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人間を人間足らしめているのは言葉が通じるかと、感情が通じるかと言う事。
言葉も通じなければ、感情も通じない人間に対して、創作の登場人物であるハンニバル・レクターはこう述べている。
「食べるときは世に野放しになっている無礼な連中を食らう」

今の時代人間が人間に見えなくなる瞬間なんて幾らでもある。
言葉が通じない人間は時に、畜生以下の感情を持たれる。
無礼ではない家畜の扱いと、無礼な人間の扱いに疑問を感じる事もある。
その垣根を破るような無礼な事をして,挙句家畜と人間の違いを曖昧にさせてしまうような人間がいたとしたら何をされても相手にも非がある。
しかしそれが刑法に当たることなら人の味を覚えた猛獣と同じで絶対に処罰はされるべきだとも思う。
相手に危害を加えた以上同じ穴の貉だからだ。

ネットが発達して、いくらでも人間を人間としてみないような価値観を構築しやすい時代だからこそ、私達は良い意味で人間らしくなければいけない。

負の連鎖は助長してはいけない。
人間扱いされたいならまずは相手を人間扱いしなくてはいけない。
人間として尊重しない相手は、結局の所自分を人間としては見てはいない可能性がある。
人間が人間以外の動物に益々何をするかを考えたら、相手は怯えてナイフを突き立てて過剰防衛に出るかもしれないだろう。
相手を尊重しない社会は荒れ果てる。

チャンネル登録者数と評価を隠すユウチュウバーを叩く人達の理由。

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ユウチュウブは今はチャンネル登録者数と、評価を隠せる。
しかし登録者数と評価を公表しているユーザーの方が多いので、隠しているユーザーに″ださい″とか″逃げている″と言う感想を持つユーザーがいても、全く可笑しくはない。
コメントが出来るというのはブログでも最早お約束なのでユウチュウブでコメント欄を閉鎖するなら確実に″ダサい″と言うような感想を抱れるだろう。

でも仮にコメント欄や評価数、チャンネル登録者を隠している人を叩く人がいたとして、恐らくその人は″皆は隠してないから″と言う理由で叩いているんだろう。
でもそんなものはレジ袋有料化で一時期騒いでいた消費者みたいなもので、皆が右に習えとコメント欄やチャンネル登録者や評価数を隠し始めたらそれが普通なんだ。 

コメント欄や評価数、チャンネル登録者を隠している人を叩く人がいたとして、その人が相手を叩く理由は皆が知っている機能を廃止したと言う所にあるのだろう。
しかし例えば狭い範囲で恐縮だがFC2ブログには拍手機能と言うものが存在しているが、それを廃止して叩かれているユーザーを見た事がない。
そもそもFC2に名の知れた人気ブロガーなんてほとんどいないし、それは皆知らないからだ。

コメント欄やチャンネル登録者数、評価数を隠している人が仮に叩かれているとして、その機能がマイナーで皆知らないような機能なら別に叩かれないだろう。
結局叩かれたり謝罪会見に追いやられる人って私みたいな馬鹿にまで、分かるほど叩かれやすい事をした人ばかりで、馬鹿には知られてないが実は悪い事をしている人はあまり叩かれない。
文章が上手く着地しないが、それはどうなのかと思う。

シャムの威を借るキツネになりたがる無責任。

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syamugameのシャムさんと言う人は可哀想な人で、復活しても復活しなくても叩く準備をされている。
シャムさんの知名度の周りには自分はリスクを犯したくはないがプロデューサー気取りでシャムさんにアドバイスをして、まるで自分がネットの人気者になったような錯覚を覚えたいと言う人達が多く集まっていて、普段は馬鹿にする癖に急に今のシャムなら1000万円(儲かる)なんて言って持ち上げて、プロデューサーを気取ろうとする人間が沢山いる。

シバターならまだ分かる。
彼は実績を出しているんだから、しかし実績も何もないような人間が、横から適当なアドバイスをして悦に入ろうとするなんて人を嘗めているにも程がある。
まず″自分の人生を″なんて言おうものならブーメランとか、今まで散々持ち上げといて″お前馬鹿か?俺はこいつみたいな馬鹿じゃないから顔晒して配信なんてしないわ″なんて言ったりするのだが、人には平気でリスクを提案するのに自分が少しつっこまれたらこれだ。

司法試験を最高難易度に置く文系と理系の違い。

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法律については勿論私達がある程度納得できる内容が書いてあるのだが、問題はやたらと難しい言葉で書いてある事だ。

宅建を最下位に起き司法試験を最高位におく法律に関係する試験だが、やはりその内容は社会的な流れの中で吟味された法律に関係する内容が書かれているので、じっくりと読めば納得できる内容なのだろうが問題は覚えられるか、そして難解に書かれた文章を理解できるかだ。
だから文系と言うのは、ある程度言葉に関係する学問を得意にする人達の集まりで、言葉に関係する事で結論だけを言っていたら会話も何も成立はしないので、過程が大事になる(結論だけ急に言うなんてアスペルガー染みている)。

しかし理系の場合は○○が○○だから○○しろ。
詳しくはその書面の数式に書いてあると言うような言い方が可能になり、肉体労働者は言葉による説明より技術を重んじるのでバリバリの理系。
パソコンのカスタマーセンターなんかも理系で、彼等が言うのは○○は○○なんだから○○しろ。
理系は文系とは違う。

分からないなら分からない方が悪い世界であり、馬鹿が分からなかろうと正しい回答が出来ていればシステムは動くし、その変が口八丁手八丁、人の心の動きで内容が変わるような法律を試験の最高峰に置くような文系とは違う。

ユウチュウブとブログのアフィリエイトの違い=テレビと本の広告の審査の違い。

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テレビは昔から本に比べて広告の敷居が高かった。
値段も相応しい広告かの審査も含めてだ。
週間少年ジャンプなんて未だに背が伸びるなんて銘打った謎の機材の広告をのせている事があるが、あんな企業はテレビに載せる広告料もなければ、テレビの万人の眼に耐えうる商品を売っている訳でもない。
だから雑誌でしか広告を見ないし、下半身に関係する広告も掲載できてもテレビでは深夜帯でしか広告できないだろうから、もっぱら雑誌でしか見ない印象がある。

そう昔からテレビは広告の審査も料金も高く、雑誌は比較的緩かった。
だから昨今のユウチュウバーを取り巻く環境もテレビの流れを受けるユウチュウブが規制を強くするのは当然の流れで、今の所本の流れを組むブログは規制が比較的緩い印象があるがどうなるかは分からない。

テレビはキー局の枠数が決まっているが、出版業界はお金さえあれば数限りなく出版社を作れる。
テレビを商店街で、テレビのチャンネルを商店の数と考えるなら 日本で視聴可能な地上無料テレビ放送は、主要都市では7チャンネルしかない。
しかし同じ考え方をするなら本屋には数限りない出版社がひしめきあっており、そう言う所もG社を通じてしか広告をつけれないユウチュウブと、ブログの違いみたいだと思う。

DQNが増えるとDQN向けにカスタマイズされた居心地の悪い世界が生まれる。

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私は基本的に肉体労働者が作った建築物と言うものを信じない。
知りもしないのに偏見を言えば彼等は常に肩肘を張り合い、力のないものは罵倒し最後には力量で出切るかではなく、思い込みに委ねて仕事をさせようとする。
上の人間がしっかりとした人間なら良いが、何かの原因で実力のない人間が上に立った場合等その建物の仕上がりは保証できない。

新聞はインテリが書いてヤクザが売るなんて言ったりする。
肉体労働者=DQNではいくら私が差別主義者でもそれは絶対にないが、仮に肉体労働者を乱暴な言い方で全てDQNに置き換えてしまうと″建築はインテリが書いてDQNが作る?″いや、いわゆるゼネコンが管轄する建築物の場合上の人間も偏見を言えばDQN染みてないと勤まらない。
阿部サダヲがゼネコンの会社で働くある程度親しみの持てるサラリーマンの役でビールのCMをしていたらそれは現実味があるが、内村光良が同じ設定でCMに出ていたら違和感を持つ。
所謂ゼネコンとはそう言う人間が働く会社で、よっぽどタフじゃないと軟弱者は恐らく直ぐに逃げ出す。



話は変わるがアルコ&ピース平子祐希が家族旅行でホテルを利用していたらチェックアウト一日前に何度も電話され、間違ったチェックアウトの日時を温度感高めに何度も話されたと言う。
何故ホテル側がチェックアウトの日時を間違っていたのか分かったかと言うと平子祐希の手元には正しいチェックアウトの日時が書かれたメールが届いており、それを平子祐希が指摘すると、ホテル側の人間は自分の間違いを認識しながら結局怒ったまま″だからそれを知らせる為の電話だ″と言うような主旨の話にすり替え結局謝らなかったと言う。

これは出先の海外の話で、この対応には人種差別やその国の温度感等があるのかはしらないが、これが現状の日本なら中々ありえる話ではない。
ただ海外のホテルの職員が謝らなかった背景には絶対に″謝ったら多くのものを要求する人間″の存在があるはずだ。
何でこの話が建築の話の後に来るかと言うと、結局過度に押さえつける人間がいるから、納期に終わらない仕事を組まなくてはいけなかったり、物を頼んだり本来は謝罪しなくてはいけない人間を威圧したりと言うトンチンカンな事をしなくてはいけなくなるからだ。

そう言う風に世の中がDQN向けにカスタマイズされていくと、全部建前になって人に感謝したり誇りを持って仕事をする人が減ると思う。
例えば接客ならお客さまに失礼がないような接客から、お客が五月蝿いから行う接客に中身が変わるはずだ。
仮に上部が同じでもDQNが文句を言わないようにする事が目的の接客が気持ちの良いものな訳がない。